■【研究の位相:コンテンツを創る】
この研究プロジェクト「ポートフォリオBUTOH」が属するデジタルメディアコンテンツ統合研究機構(文部科学省委託事業)は、科学技術振興調整費「戦略的研究拠点育成」事業によって運営されています。この事業は、研究開発機関の組織改革を進め、人材育成・研究拠点の育成を目的として、諸研究機関に委託されるものです。慶應義塾大学は、2004年度から、この戦略的研究拠点育成に採択されたのをうけて、デジタルメディアコンテンツ統合研究機構を学内に設置しました。
デジタルメディアコンテンツ(DMC)では、「デジタルコンテンツ素材」を、利用目的に沿って、生成・編集・加工・統合することによりデザインされる、シナリオをもったデジタルコンテンツのあり方の研究を目的としています。現在ここに、19のプロジェクトが走っており、「コンテンツの資源・流通に関するもの」、「メディア環境に関するもの」、また「人材育成プログラムの構築に関するもの」などと並んで「コンテンツの創造と制作に関するもの」として、本プロジェクトである「ポートフォリオBUTOH」があります。

■【研究の対象:<正面の衣裳>を動く】
土方巽(1928-1986〈57歳〉)は、いわゆる「舞踏譜の舞踏」を構築的に成立させる過程で数多くの「動き」を創造しました。ここでいう「動き」とは、ムーブメント、モーション、ポーズの総称を指し、その数は、5000を優に超えると思われます。これらの動きの創造とその組み合わせこそが土方巽舞踏のコアといえますが、さらに土方巽の特異性は、その動きを詩語の集積というべき舞踏譜で伝え、かつ、舞踏譜で残そうとした点にあります。これらの膨大な数の詩語は記号として、弟子である舞踏家たちが記述したノートに残され、これらのノートが舞踏譜となっています。
慶應義塾大学アート・センターの土方アーカイヴでは、その舞踏譜をもとに、舞踏家にそれらの「動き」を実際に演じてもらい、ビデオ撮影し、その映像コレクションを舞踏資料として残すプロジェクトを「動きのアーカイヴ」として遂行してきました。
「ポートフォリオBUTOH」は、この「動きのアーカイヴ」の作業と実績を参照しつつ、公演の記録映像、舞踏ノート、主演舞踏手が現存しているという点で貴重な研究題材である<正面の衣裳>(公演時間67分、1976年)を取り上げます。

■【研究の意義:資料を創造する】
<正面の衣裳>を扱う我々の研究上の意義は、

1. 残された舞踏ノートを扱うことで、未開拓であった土方巽の「舞踏譜」の成立と本質に切り込む研究であること
2. 初演の動きを再現することを研究の内容に含んでいること、言い換えれば、新たな研究資料を創造するプロジェクトであること
3. 最終的に、抽出された動きを自由に組み合わせ、公演映像と比較し、メタデータを積み上げてゆくことで、つまり、デジタルであることを利用しつつ、新たな創造性を確保してゆこうとしていること
にあります。
<正面の衣裳>においては、舞踏ノートに記された言葉と動きの対応関係はきわめて明確であり、さらに、その舞踏ノートは単に舞踏家のメモではなく、土方自身の肉声として考えることができます。
残されたノートは、<正面の衣裳>の公演のための稽古の過程で、時間的にも空間的にも作品創造の現場で作成されたノートです。また、土方巽の弟子たちの証言によれば、土方巽は1970年代初頭から、動きを振付ける過程で、まず言葉をノートに書き取らせ、しかも、書き取らせた言葉を再点検するということをしていたのです。

■【今後の展望:動きを編む】
「ポートフォリオBUTOH」では、<正面の衣裳>のみを扱っていますが、もちろん、この他に舞踏ノートは存在します。また、すでに「動きのアーカイヴ」として、やはり土方の弟子であった和栗由紀夫氏の協力を得て、映像による「動き」の再現が蓄積されています。今後、さらに「動き」の映像を加えることで、<正面の衣裳>を含めて土方巽による「動きの素材集」の編集・制作を計画しています。
また、山本萌氏の「土方先生は『動きと動きのあいだに舞踏はあるんだよ』と言っていました」という証言も注目すべきで、こののち検証してゆく必要があるでしょう。
それぞれの「動き」が繋げられて一つのシーンとなり、さらにシークエンスへと構成されてゆくならば、それらのシーンとシークエンスもまたひとつ一つの「動き」と同じくらい重要です。
そのことを創造の現場で検証するべく、来年度には<正面の衣裳>で使われた動きを自由に組み合わせる実験的ワークショップを実施します。

■【問題の所在;言葉が動く】
このプロジェクトは、新たな研究資料の創造を含んでいることから、その創造された資料の使い方や問題意識の投影の仕方は、無限の可能性を持っているはずです。
問題の所在として一例としてあげるならば、このプロジェクトによって、「上演芸術における言葉の占める役割」が浮かび上がってくるかもしれません。土方巽は、1970年代に入り、さまざまな動きを「舞踏譜」という形を通して創造し、伝達し、蓄積することを実行したわけで、そのことが他の舞踏家と比べても大きな特徴となっています。
もちろん、土方巽とよく対比され、インプロバイゼイションを基本にしていると言われている大野一雄の場合も、踊る上での詩的なイメージを書き記した舞踏ノートは存在します。しかし、土方の場合は、一つの動き」と一つの「言葉」が対応関係にあり、その動きのシークエンスによって作品が出来ています。
つまり、「舞踏譜」とは言っても、ダンサーによって、その内容はさまざまです。たとえば、(1)ルドルフ・ラバンのように、完全な動きの記譜として、つまりスコアのようなものを目指していた人もいれば、(2)演劇戯曲のト書きのように上演の基本形式を指示し、かつ、台詞のようにその言語自体を踊りによって提示するものとして捉えていると考えられる場合もあり、(3)動きを喚起するためのイメージとして捉えていた舞踏家もいるのです。
土方巽の場合、記された言葉それ自体がイメージを喚起するための役目も果たしてもいるのですが、土方巽から舞踏の基本的な訓練を受けたものであるならば、基本的には再現と伝達が可能なものなのです。それは、動きが言葉と対応して記号化され、ひとつ一つのセグメントとして分割できるものとなっているからです。
つまり、いささか大胆に仮説を述べるならば、「言葉」が「動き」に先行して記号として存在し、動きに名前が付けられているというよりも、言葉がそのまま動きとなって演じられているのです。
「土方先生は文学者になりたかった舞踏家でした」という山本萌の回想は、土方の舞踏に対する姿勢を裏付ける一つの証言だと思われます。また、晩年の土方と親交をもった宇野邦一は、舞踏のバイブルとも言われる土方巽の著書『病める舞姫』を論じつつ、土方の言葉に対する態度を的確に指摘しています。すなわち、「言葉こそが肉体を固定し、拘束する大いなる敵」であるからこそ、土方は「言葉そのもの関節をはずすようにして、言葉に向かった」のであり、「身体をめぐる統制の中心には、言語が君臨しているのだから、言葉そのものを変えなくてはならない」という姿勢であったと。言葉の統制力と戦うことで、それを身体に還流し、身体を再発見するという土方の図式がここに見えてくるのです。